恵みの雨かな☆

5月13日(水)
今日の静内は朝のうち雨。のち、曇り時々晴れ。すっきりとしない天気であり、夜になってまた雨が降ってきました。
でも、雨の音を静かに聞くのは心地良いものです。

最近は好天に恵まれて雨が降る日が少なかったから、これは農家の方々には恵みの雨になりそう。
それに、聞いた話では牧草の成育にも雨はとても大事ということでしたので、牧場の方々にも嬉しい雨となったでしょうか。

ところで、既にご存知かもしれませんが、最近はブログを日記風に書いています。
日記を書いている方のお話を聞き、その方の人柄や生活習慣に感銘を受けたので、私も早速取り入れたのです。

人それぞれに、悪いところもあれば良いところがあり、それをどう受けとるかが、大切なことですよね。
私は、いいものをドンドン取り入れていきたい、欲張りさんなんです。
もちろん、これは悪いなと思って頭に来ることはあるけれど、それにいつまでも縛られていたら、人間、前には進めないですもの。


例え三日坊主になろうが、とにかく始めることが大事。
始めたら、続ける努力が大事。
続けたら、いかに発展させるかが大事。
ブログに限った話でもないのですが、そんなことを意識して、今は書いています。

こういうことを、ゆったりした気分で書けるのも、静かな雨音のおかげ。
私にとっても、今日の雨は恵みの雨だったのかな。
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人間は簡単に賢くなりはしない☆

最近、威力業務妨害を犯したドローン(を飛ばした人)のニュースを見て、悲しく思いました。

本を色々読んだくらいで、人間は賢くなりはせず、色々な人との交流から、真の知識や社会性が身に付くことを、改めて認識する出来事だったように思います。

反原発などと表向きはそれらしく言っているようだけれど、良識をもって反原発を主張する人たちの邪魔にしかならないだろうし、いい迷惑だと思う。
そして、天下万民のためを思うならば、そもそもこういう行動は起こさないはずではないだろうか。
国に騒ぎをもたらして社会を混乱させるのみであり、心中、それに満足を感じたのではないだろうか。
だとすれば、その卑しい心根に、強い嫌悪感と怒りを感じずにはいられない。

我々の社会は、なるほど1世紀前よりは遥かに進歩しただろうけれど、実のところ、人間性自体は何の進歩もないのではないだろうか。
今回の彼のような社会人が世に出てしまうということは、とりもなおさず我々社会人全体の問題でもあり、理性についての問題でもあるように思う。

いかに科学が優れようとも、情報網が発達しようとも、隣人に対する愛情、信頼、そして自分を戒める理性がなければ、意味がないのではないだろうか。
それは他人事ではなく、もちろん私自身の問題として捉えています。

優しい社会の実現は、まだまだ遠く、険しい道程のようですね。
それでも、希望をもって社会の色々な人に役立つことを考え、行動できれば、一歩ずつでも社会は前進すると思うのです。

知る・理解する・待つ☆

皆さん、お久しぶりです。

毎日をエンジョイしていますか?
私は毎日が格闘ってところでしょうか。まあ、格闘っていうくらいなので、エネルギッシュに生きてます。
楽しいのか楽しくないのかよく分からないけれど、とりあえず一生懸命に生きていれば、後々振り返ってみた時に笑えるのかなというくらいに思っています。

さて、表題の件。

私は「決めつけ」をしないように心掛けています。
まあ、理論的なことから感覚的なことまであるので、そう簡単なことではないのですが、でも簡単ではないからやらないというのでは少しも進歩がないので、そういうことを積み重ねているところです。

感覚的に受け付けない自分をなぜ受け付けないのか考えてみますし、理論的には厳しくても惹かれる感覚にとらわれるのは何なのかを考えたり。
いずれにせよ、考えてみないことには何なのかが分かりませんし、当然ながら時間もかかります。
その時間は、1分かもしれませんし、1日かもしれず、はたまた1ヶ月かかることもあれば、もうとっくにそんなことを忘れてしまうくらいの年月かもしれません。
でも、真剣に考えると、どこかで納得できる時が来るのかなって思っています。
そういうのを、私は人生のご褒美みたいなものかなって思ってるんですけれど、どうですかね(笑)

人間性や文化に触れる時、すぐワクワクドキドキしたりすることもあれば、その時はビンと来なくても、人生を歩んでいくうちに触れたことの意味を知ることもあると思うんですよね。
もちろん、どっちも間違いじゃないと思います。

例えばそういう感じで、これからも視野を広げて耳を澄ませ、時には泣いたり笑ったりしながら、幸せを噛み締めていきたいものですね。

道徳と感性☆

おはようございます!

今週末は忙しいのですが、やりがいをもって取り組んでいきたいと思います。
まずは今日の仕事に全力投球ですね!

さて、小・中学校における「道徳」の授業を教科にするよう、学習指導要領の変更を今後検討していくようですね。

道徳を教科にするのは価値観の押し付け、とも受け取られかねないようですが、このような動きの背景には、凶悪犯罪及び危険薬物使用の低年齢化や多様化などがあるように思います。

また海外に目を移すと、イスラム国の台頭など、従来の宗教観や国家、テロリズムの価値観とは違った、新たな問題も起こっています。

これらの諸問題をどのように考え、解決に導く糸口を探すのか?
それは、とても難しい問題であります。
大人ですら、容易にその答えを出せません。

確かに、世の中では悪いことばかりではなくて、良いこともたくさんあります。
それらをバランスよく考える感性が、必要なのでしょうね。
そして、答えを導きだすプロセスが人それぞれ違っても、最終的に博愛精神や勇気、人に役立つ有意義なものであれば、良いと思うのです。
よって、答えは一つではない、ということにはなります。

道徳を教科にするのを、賛成な人にも反対な人にも一理あるように思いますが、どちらも子供や国の将来を案じてのことであり、どちらが良い悪いとは決して言えないところがありますよね。

道徳については、まず大人がよく熟慮する時間が必要ではないでしょうか。
それはまた、社会の多様性をどのように理解し、有意義に発展させるかの問題と同一の性質を持つように思います。

豊かな感性を私たちが求められている、ということではないでしょうか。
それは、簡単なことなのでしょうか?

民主主義の担い手は一体誰なのか?☆

先日、あるニュースを見ていて考えさせられてしまいました。
最近、似たようなことに疑問を感じていたので、余計に印象に残ったのかもしれませんけれど。

全国的に不足していると言われる保育園などの保育施設建設について、建設予定地の住民の方が反対しているというのです。
子供のためになることに、一体何故反対?と思ったのですが、子供たちの騒音が問題なのだそうです。
閑静な住宅街、高齢者が多く住む町に、相応しくないという主旨なのかもしれません。

保育園が建設された後でも、保育園と地域住民との間で摩擦が生じるところもあるとか。

そういう話は小学校でも似たような話を聞いたことはありますけれど、まさか保育園にも同じ問題が出てくるとは思いもよらなかったです。

はぁ、情けない…。
何でこんな次元の話を問題にしなければならないのだろう。
我が国は、いつの間にか公共の精神においても著しく弱体化していたことに気付かされてしまいました。
反発する方々は、一般的には良識あるはずの年長者の方々なのに、他を顧みず自己の権利のみに執着するだなんて。


子供たちはまさに国の宝です。
そんなことは子供のいる家庭のみの話ではなく、私のような独身者でさえも当たり前に思います。
子供の未来は我が国の未来でもあり、彼等、彼女等がゆくゆくは国家の興廃存亡を担っていかなければならいのです。
教育について、どうして疎かになどできるでしょうか。

にも関わらず、国家長久の計は国や行政が勝手に担うもので、自分達には何の関わりもなく、また責任も感じず、そのことで自分達の日常にちょっとした変化(その人たちが考える不都合)が生じることに、我慢ならないとでも言うのだろうか。

では、自身が幼少の時は、一体が誰があなたを担ってきたのでしょうか。
今一度思い出して欲しいのです。
いやいや、保育園なんてその時代にはなかったなんて話をする人がいるかもしれませんが、そうであれば尚更、隣近所をはじめとした地域の方々に、育まれてきたのではないでしょうか。
そして、地域を担うことについて、子供を愛でることについて、誰かがとやかく自己の権利を主張してきたでしょうか。

昔はあらゆることに厳しい時代だから、子供らしいことはさせてもらえなかったし、不遇な幼少期だった方もいるかもしれないけれど、その辛さや痛みを、今の子供たちに屈折してぶつける理由はどこにあるのか。
世を継ぐ子供達への恵みを許さないのは、全く建設的ではない。

ただ、もしかすると、騒ぎたてる子供たちと地域のことを考えず、無策だった保育園というのは過去にあったのかもしれない。

しかし、現在においては保育園の側も相当な配慮をしているはずですし、子供だって四六時中騒いでいる訳でもありません。
そもそも、「騒がない子供にする」という発想自体も、無機質かつ強制的で、およそ基本的人権の尊重とは程遠いものに感じます。
自由に物事を学び、表現することの大切さを知らず、感情を抑圧した先にあるものは、果たして明るい未来と言えるのか、ということも考えて欲しいです。
まして、騒音を出すからと言って、保育園をパチンコ等の私的な遊戯施設と同列に扱うべきなのか。どうでしょうか。

もし、以上のことをお汲み取りくださり、自分と他者の違いを認識し、周囲のことに考えを巡らし、配慮した行動ができるならば、これぞまさしく立派な長者としての業であり、地域発展と国家の礎を築くと言っても過言ではなく、その行いと精神は末永く愛され讃えられるものとなることでしょう。
年長者がそのような姿を示せば、教育を担う側(保育園)も益々地域を愛し、子供に良い気風を伝えていけると思うのです。
つまり一つの配慮で、自身と周囲にモノでは量れない利益を生むことになる訳です。


天下に孝行の道筋をつけることと、私を優先することを世に示して、公共の精神を衰退させることのどちらが良いか。
智ある人はためらいますまい。