民主主義の担い手は一体誰なのか?☆

先日、あるニュースを見ていて考えさせられてしまいました。
最近、似たようなことに疑問を感じていたので、余計に印象に残ったのかもしれませんけれど。

全国的に不足していると言われる保育園などの保育施設建設について、建設予定地の住民の方が反対しているというのです。
子供のためになることに、一体何故反対?と思ったのですが、子供たちの騒音が問題なのだそうです。
閑静な住宅街、高齢者が多く住む町に、相応しくないという主旨なのかもしれません。

保育園が建設された後でも、保育園と地域住民との間で摩擦が生じるところもあるとか。

そういう話は小学校でも似たような話を聞いたことはありますけれど、まさか保育園にも同じ問題が出てくるとは思いもよらなかったです。

はぁ、情けない…。
何でこんな次元の話を問題にしなければならないのだろう。
我が国は、いつの間にか公共の精神においても著しく弱体化していたことに気付かされてしまいました。
反発する方々は、一般的には良識あるはずの年長者の方々なのに、他を顧みず自己の権利のみに執着するだなんて。


子供たちはまさに国の宝です。
そんなことは子供のいる家庭のみの話ではなく、私のような独身者でさえも当たり前に思います。
子供の未来は我が国の未来でもあり、彼等、彼女等がゆくゆくは国家の興廃存亡を担っていかなければならいのです。
教育について、どうして疎かになどできるでしょうか。

にも関わらず、国家長久の計は国や行政が勝手に担うもので、自分達には何の関わりもなく、また責任も感じず、そのことで自分達の日常にちょっとした変化(その人たちが考える不都合)が生じることに、我慢ならないとでも言うのだろうか。

では、自身が幼少の時は、一体が誰があなたを担ってきたのでしょうか。
今一度思い出して欲しいのです。
いやいや、保育園なんてその時代にはなかったなんて話をする人がいるかもしれませんが、そうであれば尚更、隣近所をはじめとした地域の方々に、育まれてきたのではないでしょうか。
そして、地域を担うことについて、子供を愛でることについて、誰かがとやかく自己の権利を主張してきたでしょうか。

昔はあらゆることに厳しい時代だから、子供らしいことはさせてもらえなかったし、不遇な幼少期だった方もいるかもしれないけれど、その辛さや痛みを、今の子供たちに屈折してぶつける理由はどこにあるのか。
世を継ぐ子供達への恵みを許さないのは、全く建設的ではない。

ただ、もしかすると、騒ぎたてる子供たちと地域のことを考えず、無策だった保育園というのは過去にあったのかもしれない。

しかし、現在においては保育園の側も相当な配慮をしているはずですし、子供だって四六時中騒いでいる訳でもありません。
そもそも、「騒がない子供にする」という発想自体も、無機質かつ強制的で、およそ基本的人権の尊重とは程遠いものに感じます。
自由に物事を学び、表現することの大切さを知らず、感情を抑圧した先にあるものは、果たして明るい未来と言えるのか、ということも考えて欲しいです。
まして、騒音を出すからと言って、保育園をパチンコ等の私的な遊戯施設と同列に扱うべきなのか。どうでしょうか。

もし、以上のことをお汲み取りくださり、自分と他者の違いを認識し、周囲のことに考えを巡らし、配慮した行動ができるならば、これぞまさしく立派な長者としての業であり、地域発展と国家の礎を築くと言っても過言ではなく、その行いと精神は末永く愛され讃えられるものとなることでしょう。
年長者がそのような姿を示せば、教育を担う側(保育園)も益々地域を愛し、子供に良い気風を伝えていけると思うのです。
つまり一つの配慮で、自身と周囲にモノでは量れない利益を生むことになる訳です。


天下に孝行の道筋をつけることと、私を優先することを世に示して、公共の精神を衰退させることのどちらが良いか。
智ある人はためらいますまい。
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